日本共産党岩手県宮古地区ボランティアセンターの活動に参加して(まとめ)

私は5月16日から29日の2週間、日本共産党宮古地区ボランティアセンターの活動に参加してきました。
日々の活動についてはその期間のブログをご覧ください。

2週間過ごした街、宮古

 広島に戻ってyoutubeで「宮古 津波」で検索し、東北地方を襲った津波の映像を何度も見ました。
 現地のみなさんや応援のボランティアのみなさんと日々往来した景色、短期間ですが私が愛した街が津波に呑まれる姿を見ると胸が押しつぶされそうになります。正直、現地で時間を過ごし、震災の受け止めがかわりました。


 宮古市は甚大な津波被害が起こったところで、二重堤防で有名な「田老町」や今回の震災で最大の津波(37.9メートル)があった田老小堀内地区を抱える地域です。
 私が過ごした2週間は避難生活者が「避難所」から「仮設住宅」への移行期でした。しかしなお、家族を捜す方もいらっしゃいました。


 避難所で年配のお母さんに「日本共産党のボランティアです。お困りごとはありませんか」とたずねると「毎日おいしくご飯をいただいております」といった返事。でもよく聞いてみると「塩おにぎり」しかもらっていなかったということがありました。東北人の気質なのでしょうか。


 「先の見通しが持てない」といった状況は極めて深刻です。
 宮古市は漁業の町、漁師町です。駅前には古いスナックの通りがあり、宮古駅前には大漁旗がたくさんはためいています。「宮古ラーメン」は魚介スープ。そんな宮古でほとんどの漁港とほとんどの漁業船を失い、漁業者は生産手段を失ってしまった。ラーメン店の店主は「一見、ラーメン屋は繁盛しているように見えますが、宮古は漁師町ですから、漁師さんたちの先が見えないと、他の仕事をしている人もみんな先が見えないんですよ」と語られました。実感だなと思いました。


 津波で一階部分が大きく損壊した旅館店主は昨年、脳梗塞で半身が不自由となり、奥さんはこの地震で骨折され「八方塞がり」「津波で死んだ方がマシだった」と嘆いてらっしゃいました。「国はやることが遅い。『復興』と口にするだけ。何も信じられない」と憤慨されていました。
 震災から2カ月半たった今なお、先の見通しが持てず、「津波で死んだ方がマシだった」と言わせる今の政治。本当に怒りに震えました。

ボランティアはまだまだ足りない

 ボランティア(人手)はまだまだ足りないと思います。
 同じ避難所でも大きい避難所と小さい避難所では環境がかなり違います。数人単位の小さな避難所は仕切りもなく、調理人がいないため交代での調理を強いられている避難所もあります。
 被災者の要求はいくらでもあります。
津波で庭にヘドロが入って異臭がする。2人暮らしだが夫は寝たきりで『老々介護』の状態。ご近所にあわせる顔がない」と寄せられた要求に、中国地方からあつまった日本共産党の議員や支部のみなさんと一緒に泥だらけになってヘドロ除去の作業をしました。
 そのような願いは震災から2カ月半経った今でも無数にあります。みなさんの暮らしを丁寧に聞く活動が必要だと思いました。
 

 日本共産党の地方議員と支部は本当に献身的に奮闘されていました。それらに触れるたび、こみあげてくるものがありました。
 山田町の佐藤忠義町議は津波でご自身が被災される中、16人を救出。その後も辛い遺体確認作業が続いたといいます。 
 現地の日本共産党支部のみなさんはこの2カ月半、地域の避難所の炊き出しや世話などに参加されてきました。昼夜分かたぬ救援活動で体調を壊された方も多かったことが、支部会議などで話し合われていました。「人間らしいくらしをとりもどす本当の復興を」「小さな避難所こそ困っている人たちが多い。」と、支部として避難所訪問することを決め取り組みを開始されていました。
 他の団体と日本共産党が共催した「宮古復興まつり」で、住民の、特に子どもたちの笑顔と接することができたのは本当にうれしかった。


さいごに

 東日本復興に向けてのとりくみはまだまだ続きます。私はこのような現地の生の状況を広島のみなさんに知っていただき、ボランティアの輪を広げていく決意です。これは先の広島市長選の公約と重なるものですが、私自身の生き方でもあります。
 さらに、被爆ヒロシマから、原発問題で日本政府が原発からの撤退を決断し、原発をゼロにする期限を決めたプログラムをつくることを求めていきます。
 ボランティアの話を聞きたい、または救援物資を現地に届けたいという方はぜひ、日本共産党広島県委員会へご相談ください。